『穴熊社長の、蛙鳴蝉噪(あめいせんそう)6月号』

 戦後70年の節目の歳。平和ボケと揶揄されるかもしれませんが、未だ争いの絶えない時代に、平和が保たれているこの国に、戦争を知らない中年おじさんは恵まれていることに感謝します。未来永劫、平和が続くように心から誓いを立てたいと思います。近隣諸国等から過去の反省をかまびすしく指摘されますが、戦争を望む日本国民など1人もいるわけなどありません。近代史を学校で学ぶことは曖昧で、メディアを通して過去の反省ばかり指摘されると、若者やこども達は、自国に誇りをもてるか心配です。先の大戦も解釈はあっても、望んでした戦いというよりも時代の流れに引きづられていった局面もあったかと。
 戦地に赴いた先祖・先輩は、国の為、愛する誰かの為に、志高く命を捧げ、その犠牲の上に今日の日本の豊かさがあり、平和のバトンを未来につなぐ思いは誰しも変わらないと信じるところです。 昭和の財界人の言葉に、戦前の日本の教育は、「個人は全体の為にある」と施され、社会の価値基準は、「善か悪か」だったとありました。なるほど、そうであれば潔く清らかに戦地に旅立った英霊の気持ちも慮れます。
 戦後、アメリカ思想が導入され、個人の権利を重視。資本主義、多数決原理の民主主義にあっては、自分にとって「損か得か」が判断基準となった。従来の、「善か悪か」と比べると、日本人の伝統的価値観からすれば「賎しい」印象もあるでしょう。が、敗戦の窮状から目覚しい復興をしていく上では、必要であったのかも知れません。衣食住が満たされ、生活が豊かになっていくと、各人が好きな暮らしをしたいと考え、判断基準は、「好きか、嫌いか」へと変化。更に、自由と勝手をはき違えたり、大衆の心理を悪用した偽者が出回ったり、耳障りの良い言葉を駆使して、もっともらしい大儀名分を囁き、人を欺く人間が台頭するような世の中へ。即ち、「本物か、偽者か」を判断基準へとシフトしてきたものの、注意深くしていないと、その区別ができない。 IS(イスラム国)の価値観まで容認するような人道的視点はないとしても、多様な価値観を尊重しつつ、会社も社会も新たなステージに向けて歩んでいく時代とも言われます。変革していく過程であり、混沌としたところはあったとしても、「善悪の区別」、「人として生きていく上での正しさ」。「損得」ではなく、「徳」で判断する。「好きや嫌い」はあったとしても、「好き嫌い」で、争わない。禅問答のようですが・・・ナアナアではない、「和を以って尊しとなす」といった日本の伝統的価値観が世界を平和に導くことができたらと思います。他人事ではなく、責任ある当事者意識を覚悟した毎日を。「誰かのために」。
今月も、お元気様です!(2015・5・7)

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